ぼくがラーメン屋になった理由/倉橋功介の人生ストーリー

フリーランス

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Q:将来はラーメン店を経営したい。ラーメン店を経営している人の人生ストーリーが読みたいです。
 
 
 
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「好きなことをやるにはお金がいる」
「親にやりたいことを言っても意見が通らない」

そんなことを言われた経験がある人はいるのではないでしょうか。
 
そんな中、自分の意志で判断し、責任を取る。
やりたいことをやりながら、どれだけ自由に生きられるかをテーマに生きている人がいます。
 

 
京都と滋賀に3店舗ある「ラーメンこんじき」の店主、倉橋功介、36歳。
 
親がラーメン屋でなければなり方がわからないラーメン屋。
 
彼はどのようにしてラーメン屋になったのでしょうか。
その人生ストーリーに迫ってみました。
 
 
 

倉橋功介とラーメンとの出会い


 
Q:子どもの頃からラーメン屋が好きだったんですか?
 
▼コースケ
3歳くらいかなぁ。
ぼくは愛知県の田舎の方の生まれで、そこによく夜鳴き屋台の中華そば屋さんが来てたんです。丼を持っていくと中華そばを入れてもらえて。
それをお父さんとお母さんとおばあちゃんと妹と食べてました。
 
 

 

 
 
▼コースケ
ラーメンとの出会いっていうとそれですね。
 
お父さんは不動産の仕事をしてて、自宅の一軒家を事務所にもしてたんですけど、5歳の時に名古屋市内のマンションに引越すことになってからは週に1回くらいしか帰ってこなくなりました。
 
そのころは、お母さんがスガキヤのラーメンが好きでよく食べさせてもらってて…。
あと、寿司屋に行っても「ラーメンが食べたい」って寿司屋にまで出前してもらってた記憶があります(笑)
 
でも、9歳の時にある日お母さんから「離婚するから」って聞かされて。
その後、長崎県の五島列島に引越すんですけどそれからはあまりラーメンを食べなくなりましたね。
 
 

 
 
 

イジメられっ子がいたらその子と遊んだ


 
Q:コースケさんってどんな子どもだったんですか?
 
▼コースケ
離婚する時ね、確か裁判所みたいなところに行ったんですよ。
「お母さんについていきますって言いなさい」って言われてたんですけど、実際に裁判所に行った時に「家族離れるの嫌や!」って号泣したんですよ。
 
「同級生の家にはお父さんがいるけどうちにはいない」って思ってて、友達にもお母さんにもいえなくて寂しかったですね。
 
 

 

 
▼コースケ
でも、ソフトボールを始めてキャッチャーをしてました。
最初は「ピッチャーをしてみたいな」って思ってたけど、監督が「お前はキャッチャー向いてるわ」って見抜いて適材適所をしてくれて楽しかったですね。
 
あと、ボランティアで空き缶拾ったりゴミ拾いしたり。
 
ハミられる(仲間外れになる)子とかいるじゃないですか?
そういう子がいたら、その子と遊んでました。
 
多分、自分もある日環境が変わってさみしい思いをしたから、気持ちがわかるというか。
「昨日まで仲よかったのにおかしいやろ」って思ってわざとそっちにいってましたね。
 
 
 

 
Q:お父さんとはもう会ってないんですか?
 
▼コースケ
中学に入った時に、「金貸してくれ」って家に電話が入ったんですよ。
母が困ってたんで、受話器を取って「死ね!」って言ったのが最後。
 
っていうのも、田舎なんで仕事がなくて、月10万円くらいで生活してたのを知ってたから「お父さん何考えてんねん」って思って勢いで言ってしまったんですけど、あれは言い過ぎちゃいましたね。
 
五島列島には高校が4~5つあったんですけど、家の近所のところに進学しました。
近いとバス代もかからないから。
 
でも、その高校の合格発表の時に、ケンカしました(笑)
 
 

 
Q:え?どういう事ですか?
 
▼コースケ
なんかね、のちの同級生なんですけどイチャモンというか、こっちにガーって勢いよく向かってきたんですよ。
それで、やられる前にやるって思ってシバいたんですよ。
一緒にいた子をシバこうとしてたのもあって。
 
高校に入学してから大変だったんですよ。
そのシバいた子のお兄ちゃんが先輩で、その人はシバきに来ないんですけどその取り巻きがすごくて。
 
「スパルタンX」のように、次から次に敵が登場するんで、ボコボコにされました(笑)
それで軟式野球部の試合にも出られなくなったし。
 

 
Q:非行というかヤンキーにはならなかったんですか?
 
▼コースケ
そこまではいかなかったんです。
やっぱり、軟式野球部の監督がすごくよくしてくれて、問題を起こしても存在を認めてくれたんです。
 
そんな中、同級生が3年の先輩とケンカしにいくっていうから付いて行ったら謹慎処分になって。
校長先生から「お前らはクズだ!」ってブチギレられてね。
 
同級生は自主退学したんですけど、監督から「お前は辞めるな」って言ってくれて。
高校3年生の時には「お前キャプテンやれ」って選んでくれたんです。
 
その頃の野球部って、めちゃくちゃだったんですよ。
デッドボールになったら乱闘みたいな。
 
 
 

 
Q:まとめるのは大変でしたか?
 
▼コースケ
みんな気迫がないというか、ボールを打ったあと全然走らんかったんですよ。
でもある時ね、ぼくがボテボテのサードゴロを打ったんですね。
ヘッドスライディングで1塁まで突き進んだぼくの姿を見てから、みんな顔つきが変わったんですよ。
 
やっぱみんなで1つのことに向き合うのって大事だなって思ってましたね。
長崎県の大会では優勝できたし、九州大会でも準優勝できるチームになりました。
 
 

 
 
 
「ある封筒」が人生を大きく変えた

 
Q:高校卒業後はどうしてたんですか?
 
▼コースケ
家計的にも進学は無理やって思ってたんで就職しました。
滋賀県のダイハツに勤めて寮暮らし。
鉄の塊を溶かす作業を担当してましたけど、作業がキツすぎて3年でやめました。
 
この頃、「バンドやろう」って誘ってもらってギター&ボーカルを担当します。
路上ライブからはじめて、ライブハウスでもやるようになるんですけど、そのメンバーが「あーしてくれこーしてくれ」「もっとギター練習しろ」とかとにかく縛りがすごくて。
 
 

 
 
▼コースケ
日雇い労働をしながら得たお金は全てスタジオ代とライブ代に消えて、うまい棒でしのいでました。
冬でも水で体を洗ってたり。
 
そんな中、「お前はダメだ!」ってキレられる日々。
 
めっちゃ言いにくいんですけど、22歳のある日、封筒を拾ったんですよ。
そこに現金3万円と商品券2万円が入ってて。
 
生活が限界だったんで使っちゃったんですよ。
しかも、使った内容が、人生初の「出張マッサージ(’デリヘル)」
当時のストレスがすごかったにしても、頭がイカれてましたね。
 
何もかも嫌になってバンドも解散しました。
 
 
 
Q:そこからラーメン屋とか飲食業で働くんですか?
 
▼コースケ
いや、そのデリヘルの子と連絡先を交換してて、「運転手とかの仕事ないかな?」って聞いたら「ホストの仕事あるよ」って言ってくれて。
もう心を無にして6年くらいホストをしてました。
 
 
 

 

 

 

 
 
▼コースケ
「お酒飲むの好きやし、話してたらお金もらえるなんてすごい仕事やな」って思いながら続けてたら指名ももらえるようになって、うまい棒生活から脱却。仕事終わりにラーメンを食べにいけるようにもなりました。
 
ホスト業界のことも何もわからずに働いてたんで、枕営業が当たり前だと思ってたんで対応しまくってたし。
バカすぎますよね。
 
サイトで叩かれたり、ナイフを持った女性が玄関に立ってたり、接客中に「私と寝たやろ!」ってやってもないのに大声で言われたり大変でしたけど、生活のために心を無にして働いてました。
 
そこで奥さんと出会って、29歳の時にホストを辞めようと。
 
 
 

 
Q:それからラーメン屋に?
 
▼コースケ
そうです。ホストクラブのオーナーに「ラーメン屋がやりたいです」って相談したんですよ。
そしたら「修行してきてラーメン作れるようになったら一緒にやろう」って言ってくれて。
 

 
▼コースケ
そこから某ラーメン屋さんで働きながら接客やスープやタレの作り方とか仕込みを覚えていきました。
店の回し方も覚えるために2年間くらい働きながら住んでた京都で物件を探してたんですね。
 
そしたら京都の今出川店の物件があいて、「チャンスや!」って思ってすぐ動いて。32歳の時に京都の今出川店をオープンしました。
 
 

 
 
 

知られざるラーメン店の舞台裏


 
Q:オープン当初はどんなメニューを提供してたんですか?
 
▼コースケ
最初は、元祖まぜそばと鶏白湯の塩ラーメンを出してました。
 
 

 

 
Q:まぜそばと塩ラーメンにした理由って?
 
▼コースケ
今出川店が同志社大学が近いから学生さんがきてくれるんですね。まぜそばはボリュームがあってガッツリ食べてもらえるし、味に自信があったか
 
 

 
 
▼コースケ
ラーメンについては、タレがめっちゃ難しくて、まぜそばに比べたら仕込みの時間が全く違うんですよ…。
 
まぜそばだと3時間あれば仕込みはできるんですけど、ラーメンはスープは7時間、特にタレづくりが難しくて2~3週間かかっちゃうんです。
 
だから世のラーメン屋は、このタレをどう作ってるかトップの人しか知らないくらい秘密にしてて、3年くらい修行しないと教えてもらえないんです。
ぼくは、塩ラーメンのタレについては、独立前に勤めていたところで少しタレづくりの仕込みを任せてもらってたんで、かなりつかめてたんですよね。
 
そこから改良を重ねて塩ラーメンを提供できるように頑張って、オープンに間に合いました。
 
 
 

17kg太りながら生み出した渾身の醤油ラーメン

 
Q:オープン当初のお客さんの入り具合はどうでしたか?来てもらえてました?
 
▼コースケ
それが、来すぎてヤバかったですね。
独立前に勤めてたラーメン屋は1日150人とかだったんですけど、今出川店は1日250人来てくれて。
 
 

 
 
▼コースケ
スタッフにも大変な思いをさせました。
後々聞いたら「あの時飛ぼう(黙って辞めよう)と思ってました」って言われて(苦笑)
 
 

 

写真:今出川店オープン時のメンバーとの忘年会
 
 
 
▼コースケ
オープン前の心境としては、ラーメンだけだと仕込みが追い込まれるから不安もあったんですよ。予想通り学生さんはボリュームのあるまぜそばを食べたいんですよね。
まぜそばに救われました。
 
店をオープンしたものの、やっぱりラーメンっていえば醤油。
まぜそばが好評なうちに、醤油ラーメンを磨いて出していきたいなって思って。
でも、独立前に修行してたところでは醤油のタレのことを全然教えてもらえなかったんですよ。
 
 
 

 
 
▼コースケ
だから独学でスタートして。
生の醤油にお酒とかみりんとかえびや貝柱とか漬け込んで2~3週間おくんですね。
だからまぜそばと比べて仕込みの期間がすごく長いんです。
 
 

 

 

 

 
 
 
▼コースケ
そのタレスープと合わせた試作ラーメンを一杯つくって、それをズズーッと食べきった時の味と満足度でチェックしないといけないから、めっちゃ食べてました。
 

 
 
▼コースケ
1日平均3杯…多い日だと8〜10杯とか。
だからオープン当初68kgだった体重が85kgまで増えて(笑)
 
でも、オープンから1年くらいタレとスープを探求したことで納得の味の醤油ラーメンが作れるようになりました。
スープとタレがイメージ通りキレイにハマった時、「めっちゃ嬉しい!食べてもらいたい!」ってなりますね(笑)
 
手間暇かけて、思いを込めて作るラーメンは、もはや子どもですね。
 
 
▼コースケ
それから、梅小路店、深草店と順に展開していきました。
 

 

 

 
 
▼コースケ
いまは梅小路店はもうないんですけど、2019年の2月からは滋賀の南草津店にも出店してます。今は3店舗やってます。
 
 
 

 
Q:味覚・嗅覚メインのすごく感覚的な作業ですよね。ものづくりは好きだったんですか?
 
▼コースケ
 
んー…ものづくりっていうことでいえば…昔、ダイハツで溶解作業の仕事をしてた時の経験が活きてるかも。
 
1つ100kgぐらいの鉄のカタマリを、熱風とコークスで1500℃くらいになるデカイ筒に入れるんですよ。
そしたら溶けてくんですけど、色とかみながらすくって成分を取り出すんですね。
その成分の割合が大事で。
 
その割合をミスると工場の生産ラインが止まっちゃうんですよ。
感覚的にはそれにも近いのかなって。
 
この溶解作業って、お客さんの顔が見えないでしょ?
飲食店の良さは美味しかったら笑顔になってくれるし、「あぁ、自分はやっぱこの仕事が好きなんだな」って思うんですよね。
 
 
 

今後の夢・目標


 
▼コースケ
来てもらったらおいしいのを食べてもらいたいし、味の追求は続けていきたいですね。
あと、最近は、キッチンカーを買って移動式の屋台がやりたいなって思ってます。
 
 
 
Q:屋台?こっちから会いにいきたいんですか?
 
▼コースケ
ラーメン屋って早い人だと5~10分で食べて帰っちゃうでしょ?
お店がすいてる時間帯で長くても20分。
 
お酒とツマミで話しながらシメにぼくのラーメンを食べてもらいたいんですよね。
たまに出張イベントもやってるんですけど、お客さんと話すのが楽しいし。
 
 

 

 

 
 
▼コースケ
今いる仲間って、34歳の時、2年前にキングコング西野さんの「革命のファンファーレ」を読んで「自分自身をもっと発信していこう」って思って、TwitterとかFacebookやって出会って来た人たちなんですよ。
 
それまでは商売のことばっかりやったんですけど、すごく楽しい人が多くて。
その経験からもっといろんな人に会いにいきたいなっていう思いが強くなりました。
 
 
 

 
Q:どんな味を作っていきたいですか?
 
▼コースケ
やっぱね、3歳の頃にお父さんとお母さんとおばあちゃんと食べた夜鳴き屋台の中華そばの味と、あったかかった思い出が忘れられないんですよ。あの味を出したいなって思って、最近は中華そばを探究してます。
 
屋台をやりたい理由としては、長崎県の五島列島に引っ越してから、周りの子にはお父さんがいたし。お母さんには「さみしい」とか言えなかったんで。
 
家族とか友達に言えないことでも話してもらえる距離感っていうのかな。
自分もそういう場所がほしかったし、本当に「これからは屋台やりたいなー」って思ってます(笑)
 
 
 

 
▼コースケ
自分も父親になって思うんですけど、離婚を機に離れたお父さんが今どこにいるかわからないんですよ。
「兵庫にいる」って聞いたのが最後なんですけどね。
 
できたらラーメン食べてもらいたいなぁ。
 
 
 

 

倉橋功介プロフィール

1983年、愛知県で出生。両親が離婚後は長崎県の五島列島で高校まで過ごす。
社会人になってからは滋賀で働き、その後あることがキッカケでホスト業界に入る。
店長までなったものの、結婚を機にラーメン店主として独立することを決意。
現在は、京都に2店、滋賀に1店の「ラーメンこんじき」の店主として働いている。
 
 
 

「予祝屋台」を作るクラウドファンディングに挑戦中!


 
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予祝屋台を作り“夢や目標”に向かって頑張ってる人を予祝(前祝)して応援する!
 
 

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