誰もが自分の人生を決定できる社会を作る(前編)/水樹ハルの人生ストーリー
Q:公務員から独立し、フリーランスとして活動している人の人生ストーリーが読みたいです。
*****
終身雇用が崩れ、人口が減少していく日本。
「社会のレール」という正解が無くなった時代で「これからどう生きようか」と迷っている人は多いのではないでしょうか。
「公務員といってももう一生安泰とは言えないです。でも、これからは自分が本当にやりたいことを大事にして働いていきやすい時代です」と話すのが、水樹ハル、36歳。
作家、講演活動をしながら、挑戦する人をインタビューして人生ストーリー記事や動画を制作するストーリークリエイターとして活動中。
また、オンラインギャラリーコミュニティ HACの代表でもあります。
彼はなぜ、多くの人が「安泰」だと信じている公務員を14年勤めた30代半ばのタイミングで辞め、フリーランスとして活動することにしたのでしょうか?その想いや人生ストーリーに迫ってみました。
目次
水樹ハルが、14年の公務員経験で得たもの
Q:ハルさんが全国出版された著書『グッバイ公務員』の中で、今までの人生を描かれていますが、あらためて公務員時代にどんなことをしていたのか教えてください。
▼ハル
2004年の4月1日の初日に奈良県庁で「辞令交付式」があって、そこで配属先を発表されました。
最初は「県庁内のどこかの部署かな?」って思ってたんですけど、最初の配属先は橿原市にある奈良県立医科大学っていうところになったんです。配属先の医大の人事係の人が車で迎えに来てくれて・・・看護師や臨床検査技師の人たちと一緒に移動。医大で配属先を教えてもらいました。そこで、経理の仕事を3年しましたね。
Q:以外にも、初めての仕事は経理だったんですよね。簿記とか勉強されてたんですか?
▼ハル
いや、全くしてないですよ!(笑)
法律関係の専門学校だったし・・・「経理って何?」っていうスタートでしたね。
Q:経理って簿記とか専門知識が必要ですよね?そんな状態で仕事ってできるものなんですか?
▼ハル
企業の経理って複式簿記といって仕訳とかの知識が必要なんですけど、公務員・役所の経理はそうじゃないんですよ。お小遣い帳みたいな、、、予算が決まっていて、そこから病院が製薬会社から買った薬代とか使ったお金を引き算していく感じでした。
上司や先輩からの「前の年の資料見て同じようにやっといてね」という言葉に疑問を持たずに機械的に仕事をこなしてましたね。
当時は、公務員の試験勉強から解放された気持ちが強くて、家に帰れる時間も専門学校時代より早いし、「働く方が勉強より楽だなー」なんて考えてました。支払期日さえ守っていれば特にもめることもなかったので。
そういえばその頃の僕は、人付き合いが全くダメでした。同期の飲み会にも全く参加してませんでしたしね。
職場で歓迎会をしてくれる日が、新規採用職員の研修の日だったんです。研修は奈良市であったので歓迎会のことをすっかり忘れて家に帰ってました。そしたら医大の先輩から電話がかかってきて「お前今どこにおるんや?お前の歓迎会でみんな待ってるんやぞ!今すぐこれるか!?」って怒られたこともありました(笑)
それくらい仕事に対する意識はなかったですね。
「ゴールが公務員になること」だったからですね。
Q:問題児ですね(笑)。経理の仕事は何年されてたんですか?
▼ハル
公務員って、だいたい3年ごとに人事異動があるんですよ。
3年働いて自分の仕事に慣れてきたこともあって、医大に残留希望を出したんですけど聞いてもらえず異動が確定。
「県庁の道路の苦情受ける道路維持課っていう部署に異動や!」と言われて2007年の4月から奈良県庁で働くことになりました。
Q:医大から県庁ですか。職場環境も大きく変化しそうですね。
▼ハル
そうなんです。
出向してたから県庁にいた同期とは全然連絡もとってなかったから孤独でしたね。
そんな中、道路維持課に配属された初日に苦情20件受けたんですよ。
今まで経理だったから書類を相手にはしていたものの、人と対話することを全くしてきてなかったので戸惑いました。
しかも、その係は係員3人ともが全員異動してきたばかりだったので、誰も業務がわからない状態でした。相談できる人もいなくて、JR奈良駅まで泣いて帰りましたね(笑)
3年で10,000件は苦情を受けたわけです。
Q:え?係の中で誰も業務がわからないってかなりのピンチですよね???どうやって乗り越えたんですか?
▼ハル
ぼくが仕事を引き継いだ先輩で鈴木さんっていう人がいて。その人に「どうしたらいいですか?」ってよく聞きに行ってました。
鈴木さんは「辛い時こそ笑うんだよ♪」と話す自由な人でした(笑)。
そうしてる間にだんだんと業務にも慣れていきました。
困ったのは、道路工事の図面の見方と、工事を担当している土木事務所の職員とのコミュニケーションの取り方だったんです。
図面は最初は全くわからなかったけど、土木技師の先輩と一緒に工事現場に行って見方を教えてもらったりしてるうちにわかるようになってきました。ルーティンで同じことの繰り返しだったのもあったので。コミュニケーションに関しても、心を無にしてやってたらなんとかなりましたね。
Q:今のハルさんの、「一人一人に向き合って取材をする」という人柄からは想像できないですね…。
▼ハル
そうですね…。別人だったと思います。
あと、従来の仕事のやり方を変えようとすると「前年までのやり方を変えないでね。引き継ぐ人が困るから」と言われていたのでクリエイティブがどうとかいう話じゃないんです。同じやり方でやるしかなくて。
でも、事務マニュアルをわかりやすいものにするとか、できる工夫はやっていましたね。
母の死が「どう生きるか」を考えさせてくれた
Q:なるほど。そうして慣れた頃にまた人事異動があったと?
▼ハル
そうですね。2010年の4月からで僕の人生のターニングポイントになった、精神保健福祉の部署に異動になりました。
Q:著書の「グッバイ公務員」でも描かれていた人生の師匠と出会った部署ですよね。正直、その精神保健福祉の部署に配属決まった時はどんな気持ちだったんですか?
▼ハル
実は、一番行きたくない部署だったんです。
公務員一年目の時、同期が精神保健の仕事をしている時、奈良医大に患者さんを連れてきてて。大変な業務だということを知ってたから。
その時に僕はその同期に「そこにだけは行きたくないわ」と笑って言ってたんです。
その同期がいたのは当時「健康増進課」っていう部署だったんですけど、ぼくが異動するところが「保健予防課っていうところや」って課長から言われて。
「あ、精神保健の仕事じゃない!新設の部署なんだ!」って思ってたら、課の名前が「健康増進課」から「保健予防課」に名前が変わってただけで。配属された係を見たら精神保健の仕事だったんですよ!(笑)
「ヤバイ!一番行きたくなかったのに!!終わった!!」って思ってました。
Q:そうなんですね…。仕事はどんな風に進めていったんですか?
▼ハル
専門知識も何もないですしね。
でも、電話をかけてきはる方すごく困ってる人じゃないですか?
「なんとか対応しなきゃ!」と思って、電話対応や対面相談をするために、本で「傾聴」とか「共感」とか「信頼形成」とか、カウンセリングに必要な知識を学びながら実践で対話力を身につけていきました。
そういうふうに仕事をしてたら2ヶ月目に母親が自殺したんですよ。
Q:そうだったんですね。衝撃でしたよね。
▼ハル
はい。それまでは「病んでいる人や興奮している人に仕事だから対応してた」という感じで、どこか他人事だったんです。でも一気に自分ごとになりましたね。
「母親はもういないけど、大切な人のSOSに気づける自分になりたい。辛い気持ちを話してもらえる人になりたい。そのためにも大切な人が抱えている悩みにしっかり向き合えるようになりたい」と思うようになりました。
今、1人1人の人生に向き合って取材するスタイルや、「自分史」を作るサービスは、この時の経験が強く関係しています。
Q:今の活動の原点がここにあったんですね。他にも何かそういう今につながるエピソードってありましたか?
▼ハル
うーん。あ、そうですね。調書を読むのが好きでした。
Q:調書とは?
▼ハル
「自分自身や周りの人を傷つけるおそれがある人」が警察で保護されるんですけど、その方を車で精神科病院に連れて行く時にいろいろ話してたんですね。
0才から今までの生育歴がかかれたその調書を読み込んでその人のことを理解しておくことで、病院にお連れするまでの時間、患者さんの境遇とか感情を理解して話をすればこちら側の話を聴いてくれることも多かったんです。
4年間その仕事をして600人の調書を読んだり、相談を受けました。
ほんとに1人1人の人生にテレビドラマや映画以上のドラマがあって。。。こういう表現はよくないかもしれないけど、そのストーリーを知る中で「いろんな人生があるんだな、自分だけじゃないんだな」と思えたんですよね。
あと、その人の家族関係を知ることで、「この人がここまでしんどくなるのも無理ないよな」って理解できるようになりました。
密着取材や自分史を作るときに、「0才から今まで」の振り返りにりこだわるのは、この経験ですね。その人の人生の一部分だけを切り取っても理解することが難しいですから。
Q:なるほど。経理を担当されていた時の主体性の無さとは一変して、かなり前のめりでお仕事されるようになってますね。
▼ハル
精神保健の仕事を始めて2年目の時に、尊敬できる人生の師匠が上司になったことと、同い年の精神福祉士の男性Kさんが入ってきて、その2人と一緒に仕事をできたことが影響しています。
その2人は、周りの職員から「給料変わらんのにあんなにがんばってアホやな」と言われてたんですけど、そんな声なんて無視してバリバリ働いてました。その2人の姿に「自分もあんなふうになりたいな、カッコいいな」と思うようになりました。「なんであんなに頑張れるんだろう?」とも思ってました。
ぼくは公務員嫌いの公務員だったんですけど、初めて職場の人と自分から飲みに行きたいと思ったんです。
話しがしたくて「一緒に飲みに行きたい」と誘いました。
それで、同い年の精神保健福祉士のKさんに仕事をがんばる理由を聞いたら、「友達のお母さんが死んだ時に何もできなくて、だから精神福祉士になったねん。仕事だからじゃなくて、そういう自分になりたいからやってる」という話を聞いたりしました。
あと、人生の師匠から「お前はどうなりたくて仕事してるんや?」って言われた時に、「バッシングも多いし苦情も多いしあんまり誇れないんです」って答えたら、「周りがどう思うかは関係ない!公務員は世の中にええことをしてる職業や!ええことやってるんやから胸張れ!!お前がこの仕事に対して誇りを持ててないことがいちばんの問題や!」っと言われたんですよ。
最初は「なんやねん!」と腹が立ちました。でも、少し経ってまた師匠から「周りがどうとかじゃなくて、お前がええ仕事やと思ってるんやったら胸張れ。1人でできんでもええ。一緒にやろうや、な?お前が必要やねん」と言ってくれたんです。
職場環境が良かったんです。そのおかげで、仕事を前向きに頑張り始めることができました。
仕事頑張って、悩んだらこの2人と飲む。それを繰り返しているうちに、「一人で悩んでる後輩はいないかな?」と思えるようにもなって、「男塾」っていう飲み会・相談チームを結成したんですよ。
コミュニティ運営、密着取材、メディア運営のルーツ
Q:「男塾」とは?今コミュニティを作って活動している原体験がここにあったんですか?
▼ハル
公務員以外の業界でもあるあるかもしれないですけど、頑張ってると同じ公務員からたたかれることもあるんですよ。
そんな中で頑張りたくてもがいてる、同じような悩みをかかえる職員たちのセーフティネットつくれたらいいなと思って、飲み会を開催するようになりました。
写真:精神保健担当時代(係での飲み会にて)
▼ハル
呼びかけたらいろんな部署から30人くらい来てくれることもあったんですよ。
みんなホンネは辛いんだなぁってわかりました。
その時、「リトル県庁」ができるなって思って。
「そのことで困ってるなら、この部署の〇〇さんに相談したらいいよ」って横で支え合う文化づくりをしてました。
この考え方は、今やっているオンラインコミュニティのHACの原点になるかもしれないですね。
Q:人間関係の価値観とか、仕事への意識が変わっていったんですね。その後は、自分の中の変化はありましたか?
▼ハル
精神保健の仕事を始めて3年経った時に、師匠と同い年の精神福祉士Kさんの2人が違う部署に異動になって1人になっちゃったんです。
でも腐らずに使命感をもって仕事できる自分に変化してました。
あと、この次の部署の広報を志望するキッカケになったことなんですけど、1ヶ月間、奈良県生駒市にある出版社の仕事を学べる民間派遣研修があったのが大きかったですね。
奈良のローカル情報誌を発行してる会社だったんですけど、社長も社員も全員「奈良を元気にしたい!」ってキラキラした気持ちで働いてたんですよ。「公務員より公務員のマインドを持ってるなぁ」ってカッコよく思ってました。
当時、奈良県庁としては、広報誌はあるけど、Twitterがフォロワー数500人、Facebookページがない状態。出版社での仕事を経験して、奈良県を活性化するには人の動きを作らないと行けなくて、そのためにはメディアが必要だとわかったんです。
「役所も自分のメディアを通して情報発信していかないといけないんだな」って思って。
だからWEBメディアの仕事がしたいと思って、次の人事異動で「広報を担当したいです」と希望を出しました。
Q:今まで全然希望の部署にいけてないんですよね?それなのにその人事異動の希望は通ったんですか?
▼ハル
これが通ったんです、期待もしてなかったんですけど、行きたい理由をめっちゃ書いたんですね。それで希望が通ったと思ってたんですけど、実はいろんな人が僕のことを推してくれてたみたいで。本当に感謝ですね。
Q:広報課ではどんな風にお仕事されたんですか?
▼ハル
まず奈良県庁のFacebookページが無かったんです。「住む地域によってSNSで情報取得の差がつくのはマズイな」って危機感を持って。だから「Facebookページを作りましょう」って上司に伝えてたんですけど、役所で新しいことを始める時は、すごく大変なんですよね。
みんな忙しいんですよ。なかなか相談の時間も取れなくて、インターネットやSNSのことなのでわかってもらえなくて、約10ヶ月ほどかけてFacebookページ「まるごと奈良県」と、Twitter「せんとくんのつぶやき」で発信できるようになりました。
その時はまだこんなにSNSが広まってなかったし、役所内では「広報誌が一番すごい」っていう感じで、「ネット=遊び」っていう印象でした。
画像:Facebookページ「まるごと奈良県」
画像:Twitter「せんとくんのつぶやき」
写真:奈良県庁屋上にて
▼ハル
役所内では「何やってるかわからん遊んどるやつ」みたいな風にも思われてましたね。
でも「WEBには無限の可能性がある」って思いながら、PRの勉強をしてコツコツフォロワーを増やしていってたんです。
写真:奈良県庁前にて
写真:PRの勉強と実践に費やしたのは3年7ヶ月で10,000時間以上
▼ハル
一番、頑張っていて良かったと思えたのは、2017年の10月に台風で大和川の氾濫が起こった時のことでした。
それまでにTwitterでコツコツせんとくんをインフルエンサーにすることを目指しながら、フォロワーのみなさんとコミュニケーションをとっていたので、台風の被害状況とか道路の状況を夜通しリアルタイムで発信するとみんなリツイートしてくれたんです。
おかげさまで奈良県内に住んでいる市民のみなさんに情報を届けることができました。
これからの時代は、役所だけで発信するんじゃなくて、みんなで発信する時代なんだなって実感しましたね。
当時「せんとくん公務員の鑑」ってネットニュースにもなったんですよ(笑)
写真:広報担当時代
▼ハル
役所内では評価されない職員なのに、役所外では「ありがとう」って言われる。
「県民がぼくたちの上司だ。これで良いんや」と確信しました。
「上司貢献ではなくて、社会貢献が公務員の仕事だ」って。
「情報発信ってめっちゃおもしろいな!次はどんなことで社会に貢献できるかな!」って思ってたタイミングで、その半月後に人事異動がありました。
Q:それだけ実績だしてたら、広報担当として継続になるんじゃないんですか??
▼ハル
いえ、違ったんです。
県庁内の生活保護の担当の部署に配属になりました。
退職理由は、やりたいことが見つかったことと時代の変化
Q:また福祉ですか? まちづくりとか観光とか、外向けの発信の担当になるならわかるんですけど、適材適所の配置にはならないんですか?
▼ハル
決して、生活保護の仕事を低く見ている訳ではないんですけど、「前年と同じように対応してね」と言われてマニュアルをみながら機械的に行う仕事だったので、「この仕事をやるのは自分じゃなくてもええんちゃうん?」って思ったんですよ。
人事課にも聞きました。
「なんでぼくはこの部署になったんですか?」って。
そしたら、「組織の決定だから」という答えだったんです。
その時に、「あ、、、適材適所じゃなくて穴埋めで、駒としかみられてないんだな」と感じたんです。
そこで「広報のスキルも活かせないから1年で異動させてくれますか?」と聞いたけど、「前例がないから難しい」という答えでした。
Q:職員の希望よりも慣例が大事だったんですね。
▼ハル
3000人以上もいる組織なので無理もないとは思うんです。
でも、ぼくとしては、「希望の部署に異動できないってことは、、、あと3年同じことの繰り返しなのか?」と思うようになっちゃって。
これから時代は大きく変わるのに、この組織の中で働いて3年経った後、「自分に何が残るんだろう?」と考えたら、辞めないことの方がリスクだと思ってしまったんですよね。
Q:公務員になった当初と比べて、かなり意識が変わってますよね。長年勤めたのに辞めることは怖くなかったんですか?
▼ハル
2016年くらいから、これからの時代は、「ストーリー」で差がつくって確信してたんですよね。
広報担当をしていた時に、30年トマトを作っている農家の方を密着取材をして発信したら「この人のトマトはどこで買えますか?」ってデスクの電話に問い合わせが入ったんですよ。
「トマトはスーパーで買えるのに、この人のトマトが食べたくなったのは、農家の思いや舞台裏の努力が見えて感動を生んだからだ」
「品質と価格が同じくらいであれば、友達、好きな人、ファンになった人から買うんだ」
「だったら、この人から買いたい、この人に会いたい」っていう感情を湧かせる記事とか動画を作ってサポートする仕事がしたいし、そういう時代になるっていう実感が湧いたんですよね。もうやりたいことが明確だったんです。
Q:なるほど。でも準備されてフリーランスになったというよりは、自分の気持ちを優先したタイミングでの決意したんですね。
▼ハル
辞表をだして、年休を使わせてもらえたので、Twitterを本格的に始めていろんな人と会って独立後の準備をし始めました。
役所の外で、カフェバーのオーナーや、看護師、システムエンジニアとかカレー屋経営者とかいろんな人たちとの出会いで、「役所の常識って本当に狭い世界でしか通じないんだな」と思ったし、世界が広がっていきました。
写真:(2018年2月)スナックキャンディ京都にて
次回(後編)
14年勤めた奈良県庁を退職したハル。
待ち構えていたのは、公務員とは180°違う実力勝負のビジネスの世界だった…。
果たして、どのようにして、フリーランス1年目で出版社のツテも全くない状態から著書を全国出版し、オンラインコミュニティHACを運営するようになったのか?
次回(後編)に続く!
(画像:2019年1月11日の産経新聞掲載)
▼誰もが自分の人生を決定できる社会を作る(後編)/水樹ハルの人生ストーリー
ストーリー記事リンク先
投稿者プロフィール
最新の投稿
- 会社員2021.01.24ありのまんまの自分でいられる居場所を作る!|狩野良太の人生ストーリー
- 経営者2020.04.20ぼくが経営者になるまでの話/藤田直の人生ストーリー
- 経営者2020.03.01ぼくがデイサービスを立ち上げるまでの話/金児大地の人生ストーリー
- 経営者2020.01.15ひとりひとりの想いや才能が活かされる未来を創りたい/小泉希久也の人生ストーリー