僕が英会話教室を開くまでの話/鬼城雄大の人生ストーリー
Q:英語を使った仕事をしているフリーランスの人生ストーリーが読みたいです。
***
「応援してるで!!」
「絶対できる!!」
「やってみようや!!」
親や先生、人生の師から
そんなふうに期待してもらうことで
「できない」ことが「できる」に
変わった経験はないでしょうか。
「応援」の力の可能性を信じ、大阪・梅田でマンツーマンのオーダーメイド型英会話教室「O-EN」を営んでいるのが、鬼城雄大さん、29歳。
彼の人生にも、「応援」の力で道が拓けた経験がありました。
その人生ストーリーに迫ってみます。
目次
なぜフリーの英会話講師になったのか
▼鬼城
母に聞いた話なんですけど、2歳の時にアルファベットは覚えていたと。
英語に救われたのは、高校二年生の時です。
ライオンズクラブが募集していた1ヶ月の交換留学に書類を送って面接を受けたら、マレーシア、ボルネオ島に行けることになったんですよ。その冬には、塾の短期留学ツアーでイギリスにもいけて。
日本から海外に出てみて感じたことなんですけど、海外には日本のような「縛り」がなかったんですよね。「何やこの開放感は!!」っていう感覚でした。
ホストファミリーを始め、みんなあたたかく受け入れてくれて。
自分のことを知らない人ばかりだったのもあり、思いっきりはっちゃけました(笑)
それまでの自分って、進学校に通ってはいたものの、周りのクラスメイトにくらべて何かが秀でてるわけじゃないなぁってずっと思ってたんですよ。
Q:学生時代は、自分に自信があまりなかったんですか?
▼鬼城
極端に自己肯定感は低かったと自負しています(笑)自分より目立っていたり、カッコいい友達を見て劣等感を抱いてたんですよね。
「自分には何もない。何か芯を持ちたい。」と思ってるような高校時代でした。
何とか目立とうと、体育祭の応援団長やバンドでギターをやったりもしていました。
Q:高校で留学ってなかなかのチャレンジですよね?それまでに英会話は習ってたんですか?
▼鬼城
小学校5年生の時に英語塾に通い始めました。
学校でも、ALT(外国語指導助手)の外国人の先生にとにかく話しかけに行ってましたね。クラスの友達と話すより、そっちの方が全然楽しかったんです。自分の心が開ける感じで。居心地が良くて。
英語が嫌いになったことは一度もないですね。
常に新しいことの発見!みたいな感じで。とにかく外国や新しいことへの好奇心が旺盛でした。
怒鳴られるのは嫌だけど、とにかく人が大好きな子どもだった
Q:「コミュニケーション能力が高い」というのはどういう経験をしてきたからだと思いますか?
お父さんとかお母さんの影響ってありました?
▼鬼城
両親ともに、とにかくアクティブでスポーツ大好きで自由な人で。常に周りには笑顔の人たちがたくさんいましたね。
父は社会人のソフトバレーボールチームを作って活動してたんですけど、クラブ名が「FREEDOM」で(笑)
僕も両親に毎回ついて行って一緒にバレーをしたり、輪の中に混じってたんですけど、そこには20〜30代の大人の人も多く居て。
僕はそういう環境でも、物怖じせずに飛び込んでいく少年だったんで、その経験が大きかったんですね。
かなり周りには愛されて育ったと思います。
その経験が今の僕をつくってくれています。
Q:なるほど、英語って極論「コミュニケーション」って言いますよね?人と関わるのが好きだったんですね。
▼鬼城
そうですね。
大学生ぐらいの時に、自分は「八方美人」だと気づき、悩んだこともありましたが。でも、好きなものはしょうがないです(笑)
怒鳴られることがとことん嫌でした。
というのも、母が剣道の先生で、毎朝起きないぼくに、竹刀を持って部屋に入ってきて「いい加減にしろや!!!」って、毎日怒鳴られていました。脅迫ですね(笑)
小学生の時に柔道をやっていたことがあるんですが、その先生もなぜか竹刀を持って毎回しばかれてました(笑)
部活の先輩とか。何で理不尽に怒られないといけないんやろ?って疑問に感じてました。
人生の大事な価値観「応援」との出会い
Q:大学は外大に?
▼鬼城
関西外国語大学に進学しました。
出身が山口県の萩市っていうところだったんですけど、よそ者を受け入れない風潮があるんですね。
そこから大阪に一人で出てきたんですけど、
大阪の人って本当に「あったかいなぁ」って。
Q:どんなところがそう感じました?
▼鬼城
大学のバレー部に入ったんです。
すると、周りの先輩や部員は「春高バレー」に出てるようなめっちゃうまい人ばっかりやったんです。
それに比べて僕は下手くそやし、ポンコツやったんですけど、先輩たちは「そんなんもできひんのか?!アホやなぁ!」って言いながらも丁寧につきっきりで教えてくれたんですよ。
「アホって愛なんや!」ってめっちゃ思いましたね。最初は辛かったけど(笑)
▼鬼城
「ピグマリオン効果」って知ってますか?
「教師期待効果」ともいうんですけど、教師や親など周りの人間が「絶対できる」って信じて上げることで、その人は何でもトライしてみよう!ってできるようになるし、「そんなん無理やろ」って言ってしまうと、その時点でその人の成長は止まってしまうんです。
見事に先輩たちの期待を受けて、ここまでバレーが上達し、成長して、自信に繋がっていると感じます。
Q:卒業後は何をしようと思ってました?
▼鬼城
教師です。
中学生の時からの夢だったんです。
実を言うと、受験前に色々あって。
父と母が離婚して、家族が崩壊したんです。
僕には、2歳下の妹と10歳下の弟がいるんですけど、僕は18歳、弟は8歳でしたね、当時。
父は、「俺が買った家やからお前らが出ていけ」っていう人で。
もちろんみんな母についていったんですけど、その時は正直つらかったですね。
でもその時僕は心に誓いました。「絶対にあんな人間にはならん。俺が家族を守らんにゃいけん。」と。
そこから、大阪に出てきたんですが、「自分だけこんな大学生活をしていて良いんやろうか」って葛藤しながらも、部活と遊びに明け暮れてましたね。
失敗したからこそ人生の師との出会いがあった
Q:大学時代はどんな生活をしてたんですか?
▼鬼城
「授業→部活→ボーリング→温泉→麻雀→昼まで寝てから授業」みたいな生活をしてました。
体育会の役員や学園祭実行委員などもやってて、そしたら教職課程の単位が一つだけ足りなくて(笑)1年遅れで教育実習を受けて、居酒屋や引越業者でバイトしながら、必死に教員採用試験に向けて勉強しましたね。
結局、教員試験には落ちましたが、常勤講師として寝屋川市の中学校で常勤教員としての生活が始まりました。
社会人になってからもバレーボールを続けていたんですが、ある時ビーチバレーと出会いました。
その時に出会ったのが、僕の今の一番の理解者である「テルさん」です。ちっちゃい真っ黒焦げのおっちゃん何ですけどね(笑)僕のことを一番可愛がってくれて、当時は周りから、「あいついる?ww」って影で言われてたぐらいビーチバレーに関してはポンコツだった僕に、全てを受け入れてくれてサポートしてくれたんです。
▼鬼城
「応援って人生にとって一番大切なものや。応援してくれる人が周りにいることで、可能性ってめっちゃ上がるな。」って思ったんですよ。このことが、今フリーランスでやっている英会話教室「O-EN(オーエン)」の名前の理由なんですけどね。
学校現場で見えた世界
Q:大学を卒業した後は、どこかで働いてたんですか?
▼鬼城
寝屋川市の中学校で英語の教員として働きました。
可愛い可愛い1年生を担当することになりました。子どもたちは毎日「先生!先生!」って、自分の子どものように愛していました。
ところが、一つ上の学年の英語を担当していた先生が急遽辞めるという事件が。「誰が担当になる?」っていう話になって。
というのも、2年生はえげつないぐらい荒れていました。
陰湿なイジメがあったり、まともに授業ができないレベルでしたね。
でも、年度途中で僕が担当にすることになったんです。
地獄の始まりでした。
授業妨害、エスケイプ、生徒を指導したら胸ぐらをつかまれたり。本当に辛かったですね。何度やめようと思ったか。
1年生の子たちとも会うたびに、「何で先生2年のところに行ったん?!」って言われるたびに、心臓を掴まれるような思いでしたね。「俺も行きたくねーよ」って。
葛藤の一年半でしたね。
「こいつらの卒業する姿を絶対にこの目で見届ける」って思っていました。
その年の末、転勤が告げられました。
僕は幾度となく校長に直談判しました。
「最後まであの子たちを卒業させたい。学年は持てなくてもいい。せめてこの学校に残してほしい。」
でも、その思いは届きませんでした。
人生で一番辛い時期でしたね。
離任式。
もうダメでしたね。
全校生徒300人の前で、僕は泣き崩れました。
写真:当時の学年の子たちからの手紙
Q:転勤した後も、教員を?
▼鬼城
全く思いが入らなかったですね、無気力というか。「心ここにあらず」って感じで。
卒業式の日。前の学校の先生に行かせてくれとお願いしたけど、「それは無理や」って断られました。
あの子たちには本当に、謝りたいです。最後まで見てやれなくてごめん。
本当に僕の方が元気をもらっていたと思います。
Q:そこから海外に?
▼鬼城
教師になって2年目ぐらいから、「もっと他の社会のことや、世界のことを知りたい」と強く思うようになりました。
教師ってほんまに狭い世界なんです。誰からもフィードバックはもらえないし、大学生上がりのちょっと社会人に毛が生えたやつに、何もできないなって。自分の弱さにもやもやしていましたね。
オーストラリアにワーキングホリデーに行くことを決断しました。
このことも、恩師のテルさんにもちろん相談していました。
そしたら「ワーホリに行くために必要なことを一緒に考えよう」って言ってくれて。
この人がいなかったらどうなっていたか分からないですね。
教師を続けていたかも(笑)
テルさんにはなれなくても、「テルさんみたいに周りのみんなを全力で応援できる人間になろう!」って、改めて思った瞬間でした。
写真:世界中から来た100人と生活しながらバナナファームで働いたことも
▼鬼城
ワーホリでは持ち前の行動力とコミュ力で、特にビーチバレーを通じてたくさんの素敵な人たちとの出会いがありました。
僕にとっては掛け替えのない家族が世界中にいます。
写真:オーストラリアのビーチバレーの大会には全て参加
Q:帰国後は?就職していたんですか?
▼鬼城
ワーホリから帰ってからは、PROGRIT(プログリット)という、現在、本田圭佑がアンバサダーをしている、ビジネスマン向けマンツーマン英語コンサルティングの会社で働くことになりました。
一人一人の個性・ニーズに合ったオーダーメイドの英会話教室を開いた理由
Q:PROGRITに入って働いてみてどうでしたか?
現在、創業3年目くらいの会社なんですけど、コンタルタントとカウンセラーを担当してました。
3ヶ月間目の前の人と本気で向き合う。上部だけの英語力だけでなく、その人の生活まで踏み込んで人生をコンサルティングする、そんな伴走者のような役割ですね。
人生には必ず「コーチ」や「メンター」が必要だと思っています。
自分にも師匠、メンターはいます。
「こんなやりがいのある仕事はないな」と思いましたね。
でも、違和感を感じたことが一つだけありました。
それは、カウンセラーがカウンセリングを行い、そこでお客さんが申し込みされると、コンサルタントに繋ぐんですね。
僕のことを気に入って契約してくれた人のコンサルを僕がすることができなかったんです。
「鬼城さんに見てもらいたい」って言われて、僕のことを気に入ってくれるお客さんがいた時に、マネージャーに言われました。
「いや、それじゃダメじゃん。”おにちゃんの”ファンじゃなくて、”会社の”ファンになってもらわないと」って。
「???」
僕は頭の中で自分に問いかけました。
「自分に興味を持ってもらってはいけない?」
この時に、「あ、やっぱり僕は会社のために自分を犠牲にできる人間じゃない。独立しよう」って。
その時に、目の前の人と1対1でトコトン向き合うのが好きやって気づいたんです。
これまで応援してくれた人と、1対1で本気で向き合ってきた経験からですよね。
枠やルールがあるサービスをしたいんじゃなくて、その人の希望に合わせてトコトン付き合うオーダーメイド型の英会話教室を開こうと思って、今年の6月末でPROGRITを退職して、フリーランスとして「O-EN 」っていう看板を立ち上げ、現在は英語を通してその人の人生に向き合う「英語コンサルタント」としてやっています。
写真:独立後初めての宣材写真(笑)
今後の夢・目標
▼鬼城
日本には素晴らしい歴史と文化がある反面、時代に合わせて改善したほうが良いところもある。
子どもたちが自分をもっと表現できるようになる教育の必要性を感じてます。
子どもの選択肢を広げ、可能性を引き出し、夢を応援する。これこそが親であり、教育者の役割だと強く感じています。
日本は島国で、クローズドで、非常に小さなコミュニティですからね。
僕は4年前ぐらいから「学校を創る」って周りに言いふらし続けています。
ここでいう学校って、みなさんが想像する学校ではなくて、「異世代、異文化、価値観の異なった人たちが、同じ空間をシェアし合い、体験しながら常に新しいことを学び会える空間」を創りたいと思っています。
これこそが、学校の本当にあるべき姿だと考えます。
って思ってたら、HACと出会えてめっちゃテンション上がってます(笑)
顔やストーリーが見えるコミュニティのリアルな場所の実現ができたらおもしろい!
▼鬼城
英語コーチとしては、「英語」の壁を感じている人の力になりたいと思っていますし、個人的な人生相談も受けて、一緒に壁を越えていきたいです。「やりたいことはあるけど、壁を越えられない」っていう気持ちはすごくわかるので。
あと、上部だけの英語力を身につけるのではなく、その人が何で英語をやりたいと思ったのか、とか、その人の価値観を深掘りして、本質的な「人間力」の部分までサポートさせていただきます。
他の英会話スクールではこんなことまでしてくれるとこはないと思います(笑)
英語は奥が深いです。
でも普段考えたことのないようなことや、学校では教えてもらえない言語の起源など、外国人と会話をする上では知っておいた方がいい背景知識など、様々な情報もお届けします。
英会話から、世界を広げたい方、ぜひお気軽にご相談ください!
Let’s try anyway!
鬼城雄大 プロフィール
高校2年生の時に、交換留学でマレーシアとイギリスでの生活を経験し、枠にとらわれない世界を体験。その後は関西外大に進学し、卒業後は大阪府内で英語教師として勤務。学校の枠に縛られる生徒の姿を見ながら、日本の教育現場の限界を実感。その後、ワーキングホリデーを経験し、帰国後は英会話コーチングの企業で勤めるも、枠にとらわれない1対1のオーダーメイドの向き合いをしたいと、大阪・天満橋で「O-EN」という英会話教室のフリーランスとして活動中。
投稿者プロフィール
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